せーぞんほうこく

このブログの存在、忘れてた。

 

まあ単に生存報告だけして終わるのは簡単ですが、自分としても、(本当にいるのかすらわからない)読者のみなさまにとっても、それは少しばかり物足りないものであると思うので、ちょっとだけ文章を書きます。

僕は最近、春場ねぎ先生の「五等分の花嫁」という作品にすごく熱中しています。作品への熱中具合をはかる指標になりうるのかはわかりませんが、たとえばアニメ主題歌「五等分の気持ち」については、3[m]42[s] × 462[times]  = 28[h] + 29[m] + 24[s]ということで、総時間にすると丸一日以上視聴している計算になります。「ああ、なんだ。たった一日、ひたすらヘビロテしただけか。」とさえ思ってしまうところに、この楽曲の強い中毒性を感じてしまいます。今回はこの「五等分の花嫁」について、少しだけお話をさせてください。

ところでアニメ「五等分の花嫁」には、上記の「五等分の気持ち」以外にも、同シングル内の「ごぶんのいち」や、キャラクターソング「Hello, dear my dream〜一秒後には〜」や「ハートのカタチ〜四葉のClover〜」など、非常に良曲が多いです。特にキャラクターソングについては、下記リンクに簡潔ながらよくまとまったレビューが掲載されているので、興味がある方は一読をおすすめします。

www.animatetimes.com
黒駒

五等分の花嫁で避けては通れない話題の一つに、「五つ子の中で推しは誰であるか」というものがあります。僕はそのようなことを他人から問われたときには必ず、「二乃である」と即答するようにしています。なぜ僕が二乃を好きになったのか、好きでいられたのか。今回は自分の気持ちの整理も兼ねて、この場を借りてごく簡単にまとめてみることにします。

  • そもそも論

五等分の花嫁を読んでいると、作者である春場ねぎ先生の天才性を感じることが多々あります。まずすぐに感じたのは、「五つ子のキャラクター設定」についてです。(他にもたとえば、ストーリー展開やコマの使い方、などはすぐ挙げられるでしょうか。)

これがどのくらいすごいのかというと、この作品に触れた人間は、少なくとも五つ子のうち、誰か一人に対しては好意を持ってしまうのだろうな、とすら思ってしまうほどです。かなり主語が大きくなりましたが、ご容赦ください。しかしこの、「誰かは好きになってしまう」キャラクター設定が、「五つ子の中で推しは誰であるか」という question が、避けては通れない話題になっている理由のひとつではないでしょうか。

このあたりで僕の話に戻ります。僕は「主人公への第一印象があまりよろしくない」という属性を持ったキャラクターが好きです。もっと言ってしまうと、「第一印象があまり良くなかった主人公に対して恋をしてしまう」キャラクターとなります。僕が二乃という女の子に対して魅力を感じるようになることは、思い返してみても必然であったように思います。

  • 一見強気に見えるが、本当はすごく繊細である

僕は、本当はとても繊細であるのに、他人の前では強くあろうとする女の子が好きです。このようなキャラクターは、一般的にも人気が高いのでしょう、様々な作品で、高い頻度で登場するように思います。たとえば、僕が非常に尊敬している作家である丸戸史明先生の有名な作品から名前を借りると、「冬馬かずさ」や「澤村・スペンサー・英梨々」といったキャラクターが該当するでしょうか。

このようなキャラクターは、基本的に恋の相手である主人公にすら、強気にふるまうことが多いように思います。そんな中でときたま、主人公「だけ」に見せる彼女らの「本当の気持ち」というものは、とても健気で、愛おしいものです。

僕には五等分の花嫁で、好きなシーンが数え切れないほどあります。それでも、今この場で一つだけ言えと言われたら、迷わずに二乃のかの有名な告白シーンをあげます。

  • バランスが取れている

二乃はとにかく風太郎に対して一途であり、自らの恋を「他人を蹴落としてでも」成就させたいと考えています。たとえば一花に、「愛の暴走機関車」とたとえられるくらいです。(ここで他人とは、主に自分の姉妹を意識したものでしょうね。) 

そんな二乃ですが、とある場面でとある人物に対して「(風太郎に)他の姉妹が選ばれるようなことがあっても、私はそれを祝福したかった」といったような発言を残しています。この発言に、僕が二乃を好きでいられたすべての理由が詰まっているとさえいっても、きっと過言ではないでしょう。

何事も、「バランスが取れている」ということがとても大事であるように思います。少し話題が逸れてしまいますが、このような話は、SAGAPLANETS「金色ラブリッチェ」の妃玲奈√でもテーマとなっています。非常に共感できるところが多い話でした。せっかくの機会なので、18歳以上の方にはプレーをおすすめしておきます。 

他人に「暴走している」とまで言われるような状態でも、「あくまで冷静に、一歩引いた視点でものごとを俯瞰する」といったことができる。そんな「バランスの良さ」が、二乃の何よりの魅力ではないでしょうか。 

 

簡単に箇条書きにして終わるつもりでしたが、書いてみると意外と長くなってしまうものです。五等分の花嫁にはさらに、他に四人もこのように魅力的なキャラクターがいるのですから、驚くばかりです。

さて、今回はこのあたりで終わりにします。最後まで読んでいただいた方がもしも存在しましたら、ありがとうございました。あ、そういえば。アニメ五等分の花嫁二期制作決定、おめでとうございます。また地上波で五つ子たちが見られることが、何よりうれしいです。

存在の耐えられない若さ

大人のまねして飲むコーヒー

苦いのがまんする顔がおかしかった

-- WHITE ALBUM 2「恋のような」より

 

大学にいる人間を見て「若いなぁ」と思うようになったのはいつからだろうか。

 

僕は基本的に自分と同年代、あるいは上の世代の人間としか絡むことがない。そのため、周りの人間を見てフレッシュさを感じることは特にない。

もちろん街で見る中高生はずっと若く見えるのだが、彼らはたいてい制服を着ているからその効果もあるだろうし、そもそも本当に年齢が離れているのだから特に違和感はなかった。彼らは僕にとっては若く感じて当たり前の対象なのである。

異変を感じたのはここ最近。大学の学食に行くと、周りの人間がはっきり若いと感じるようになった。これはなかなかショックだった。

自分や自分の周りの人間と比べると、彼らのする行動や彼らの持つ表情は全然違っている。たとえば僕には、講義後に講義が一緒という理由だけでたいして親しくもないグループでご飯を食べにいく体力も、あんなに無邪気に笑えるような感性ももう残っていない。もちろんこれは僕という人間の性質もあるだろうが。しかし、僕も大学に入った頃は、程度は違えど彼らのように楽しく生活することができていたような気がする。

よく考えてみると、今大学にいる人間で一番若い人間は、なんと僕が高校生だった時にまだ小学生だったような人間なのである。そして僕はこの「存在の耐えられない若さ」を感じて学食を後にする。ここではもう、生きられない。

最近になって定期的に自分や自分の周りの同年代の人間の数年前の写真を見る機会がある。写真の中にいる彼らには、僕が今学食で周りの人間に感じる若さがある。これは同時に、僕らが失ってしまったものでもある。

こんな話を自分よりも更に上の年代の人にすると、大抵その歳で何を言ってるんだと笑われる。ただ、きっとあっという間に、自分もこうして彼らのような中年男性になっていくのだろうなと思う。それは別にいいのだが、苦いコーヒーを大人の真似して飲んだときの表情を彼女に笑われる、みたいな体験を若いうちにできなかったのは残念。

「桜樹みりあ」ちゃん初の単独生放送を見て

www.youtube.com

ありがとう、桜樹みりあ。

 

今日(昨日)はゲーム部プロジェクトの桜樹みりあちゃんが初の単独生放送をしていた。とはいっても僕はちょうど手が込んでいて、リアルタイムで視聴できたのはラストだけなのだが。内容はフリーのホラゲと言ったらもう定番(と僕は思っている)の魔女の家の Extra モードをクリアするまで帰れない、というもの。

魔女の家には ED 前のラストで割とシビアなアクションが求められるところがある。もう少し具体的に言うと、プレイヤーが魔女に追いかけられながら脱出を目指す、操作中に足元に障害がリアルタイムに発生するので難しい、みたいな感じだ。で、放送を見たら案の定そこでみりあちゃんが詰まっていた。一応直前にセーブポイントがあるのだが、それもあってゲームオーバー即やり直しの無限ループ状態。

ここで僕は一抹の不安を覚える。これみりあちゃんイライラしちゃうよな?と。一瞬の操作ミスが命取りになる緊張感の中で、何度も何度も失敗してしまい同じことの繰り返し。しかも家で1人でプレーしているわけではなく、一応仕事部活動である。も○う先生だったらもうとっくに switch を破壊しているに違いない。そんな中でみりあちゃんは、一体どのような発言をしただろうか。

「あ〜ちょっとイライラ配信みたいになっちゃってる本当にごめん!」 

「もうちょっとみりあがうまかったら...」

「心はね、折れないよ。いや折れてもいいんだ。折れて心は強くなるから。」

聖人か。 

絶対にみりあちゃんもフラストレーションは溜まっていただろう。しかし、これらを本当に申し訳なさそうに言うのだ。つまりあれだけの状況下においても、我々視聴者の前では絶対にイライラ(のような負の感情)は出さずに、むしろ気を遣ってくれているわけで。そしてさらに、少なくても僕にはどんな時でもみりあちゃんは純粋にゲームを楽しむ心は忘れていないように見えた。ただ失敗を重ねるだけではなく、次はここはこうしよう、今のはこれがダメだった、みたいなフィードバックがちゃんと出来ていた。これはもう紛れもないプロフェッショナル。アホピンクとはなんだったのか。

それからはもう、失敗の中で少しずつ上達していく姿は涙なしには見られなかった。僕はあの瞬間、13000人(視聴者数)とまるで同じライブの会場にいるような一体感を勝手に覚えていた。否、確実にあの瞬間、僕たちは1つだった。

この放送の行方は、是非みりあちゃんの動画を見て確かめてほしい。今日の放送で僕は確信している。「桜樹みりあちゃんはこれからも"伸びる"」

 

眠れないのでこんなことを書いた。この記事で少しでも桜樹みりあちゃん、ないしゲーム部プロジェクトに興味を持ってくれた方がいたら嬉しい。ちなみに僕はいろいろな V の者を見てきてどれも長続きしなかったのだが、ゲーム部だけはいつも楽しく視聴している。 

 

P.S ハルカスが最後まで放送を見ていたっぽいのは良かった。

 

「経験値」について思うこと

初めての記事だが、僕という人間の自己紹介も兼ねてふと思ったことを書いてみる。

 

僕は現在理系の大学院に通っているのだが、進学にあたって自分の周囲の環境が大きく変化したなと感じたときが2回ある。幼稚園 → 小学校のような時もきっと周囲の環境は大きく変わっていたのだろうが、いかんせん記憶にないし、ここでは周囲の環境の変化という中でも特に「周囲の人間の変化」について重きを置いてみたい。

1回目は高校に進学した時である。僕は地方の田舎の出身のため、中学は家から近い地元の公立に通っていた。そのため、中学時代は良い意味でも悪い意味でも色々な人間がいた。そしてきっと、良い意味でも悪い意味でも僕のことを思い出しながら僕と同じことを言う同級生がいたとしてもおかしくない。それくらい、様々な価値観を持つ人間が混合していた環境だったと思う。年齢を重ねた最近は、きっとこれからの人生ではあれだけ多様な人間がいる空間で過ごすことはもうないのかなとも思う。そう思うとなんだか寂しい。いや、社会知らない癖に何言ってんだって話だけど。

高校で初めて受験を経験した。少し言い方がおかしいが、高校に入学して周りの人間の質が大きく変わった。単純に年齢に伴って精神が成長したということもあるのだろうが、中学時代には少なかったタイプの人間が飛躍的に増えた。多くは勉強も運動も頑張ってるクラスの人気者、みたいなタイプ。彼らはどうしようもない人間だった僕にはとても眩しかった。また、当時は今ほどは世間的に受け入れられてはいなかったいわゆる深夜アニメやゲームが好きな「オタク」的な人間も多かった。周りに理解のある人間が増えた。いってしまえば、高校からはだいぶ治安が良くなったのだ。

前置きが長くなったが、ここで 2回目の「大学に入学してから」に触れてみたいと思う。僕は大学に入学するにあたって初めて上京することになったのだが、そのせいもあってか地元にはいなかった(全くいないということはなかったが)タイプの人間にたくさん出会うことになった。

彼らはこれまでに積んできた「経験値」の量も質も全然違うのである。この例によってさらに分かりにくくなってしまう人もいるだろうが、ポ○モンの努力値の振り方みたいなものと考えてもらいたい。めちゃくちゃゲームが上手い人間、めちゃくちゃ本を読んできた人間、めちゃくちゃゲームをこなしてきた人間(1つを極めてる1つ目のタイプとは少々違って、ここでは本数的な意味で)、めちゃくちゃ音楽を聴いてきた人間、めちゃくちゃアニメを見てきた人間、など。このような感じで一般的な評価指標になりやすい「勉学」以外の分野でも秀でている人間が非常に多かった。これは絶対にかなわないなと思える人間だ。

これは僕の狭い視野で見た限定的な知見になるが、これらの人間はいわゆる首都圏の有名中学を受験していた場合が多い、と思う。彼らがどのような6年間を過ごしてきたのかは僕には検討もつかないが、僕が「高校、ないし大学で」感じた周囲の環境の変化よりもさらに大きな変化を彼らはきっと中学の時に経験したのだろう。

僕が人生をやり直せるなら、彼らが過ごした環境と同じ環境に籍を置いて、青春時代に彼らと同じ時間を過ごしてみたい。僕は今に至るまで本当にどうしようもないくだらない人間なのだが、もしかしたらいい(のか知らない)影響を受けて今とは違う自分になれていたのではないかな。

まあそんなことを言っても仕方ないので、大抵の人間は自分の子供に自分の送ることのできなかった人生を歩ませようとするのだろうね。全くモテない僕には関係のない話だが。